めぐりめぐらせ ~ある翻訳者の関心事~

在宅翻訳歴9年目の「めぐり」と申します。分野は「IT/ビジネス」、言語は「英→日」です。 twitter: @meguri_megurase

2016年09月

前回の私の記事「翻訳と、ブログと、twitterと。(1)」が途中ですが、今回はチェッカーに関する話題を取り上げたいと思います。

未来堂さんのブログ記事『チェックについて① 前書き』と『すべては翻訳の質で決まる』を拝見して、私なりに感じたことを書きたいと思います。

□■□■□■□■□

チェッカーというお仕事についての未来堂さんの一連の記事はまだ続いていますが、現時点で投稿された2つの記事の文面から未来堂さんが感じておられる「もどかしさ」が伝わってきます。

数回でもチェッカーのお仕事をしたことがある翻訳者さんなら、未来堂さんのおっしゃっていることを実感として理解される方も多いんじゃないでしょうか。

2つ目の記事のタイトル『すべては翻訳の質で決まる』というのは、そのとおりだと思います(以降は私の考えですので、IT/ビジネス分野の英日であることを前提として読んでください)。

他分野ではどうかわかりませんが、IT分野ではその特性上、他の翻訳者さんの訳文がネット上に掲載されているので、チェッカーのお仕事をしなくても目にする機会が多い。しかし、チェック→校正→クライアントを経て掲載されたであろう「完成版」ですら首をかしげたくなるものも少なくありません。

「首をかしげたくなる」とはどういうレベルかというと、私自身の一次訳か、それよりもひどいというものです。

「もし本当にそのレベルで納品しても許されるなら、少なくとも今の1.5倍の分量は処理できるな」と思うのですが、やはりプロを名乗る以上、私はそうしたくはありません。それに、たとえそうしたとしても、きっと最終的にお仕事が来なくなって意味がなくなるでしょうから。その頃には、自分自身の翻訳スキルも後戻りできないくらいに落ちているかもしれません。

ではなぜ、そのレベルのものがまかり通っているのでしょうか。最低限、トライアルは合格したはずなのに...。翻訳学校を併設する翻訳会社では、トライアルを実施せず、「学校の成績で判断して登録」ということもあるかもしれませんが、それならそうで、翻訳学校の先生が数か月以上見てきた生徒さんの実力を判断する方が、一発勝負のトライアルよりもはるかに容易なはずです。どちらにしても、まずはこの段階で登録する翻訳者さんが「プロのレベルに達しているかどうか」をしっかりと判断できるしくみが必要ですね。

このしくみについては、ここでとやかく言っても仕方がないので、トライアルまたは翻訳学校修了時には「プロのレベルに達していると判断された」翻訳者さんについて考えてみましょう。

もしそうなら、「どうして実務ではその能力が発揮できないのか」ということになろうかと思いますが、その理由の1つに「納期」があるのかもしれません。トライアルや翻訳学校の課題に提出期限があるといっても、実務の納期に比べれば余裕があり、たっぷりと調べたり、推敲したりする時間があるはずだからです。登録がかかっているので、入念に作業するでしょう。しかし、実務ではそうはいかない。新人だからといって、クライアントがそのあたりを考慮してくれるはずもありません。

じゃあ、どうすべきか。それは、翻訳会社にかかっているのではないでしょうか。最初は納期の緩いものだけを発注して、少なくともトライアルで合格したレベルの品質を確保できるようにする。そこから徐々に納期を縮めていく。翻訳者自身も、最初はたくさんの翻訳会社に登録することを目標とせず、じっくりと腰を据えて目の前の仕事に取り組むべきだと思います。それでは生活が立ち行かなくなる?そのような経済状態であれば、やはり最初は二足のわらじ期間を設けた方がいいかもしれません(もちろん、最初からスムーズにスタートできる方はこの限りではありません)。

翻訳とはまったく関係ありませんが、文具屋さんでバイトを始めたとき、プレゼント包装の仕方を教わっていて言われたことがあります。「ゆっくり丁寧には誰でもできる、素早く丁寧にできるようにならなきゃダメ」と。

そうして数をこなすうちに、同じ品質を保ちながらも翻訳スピードが上がってくるはずです(その後、より一層品質を向上させたいと考え、またスピードが落ちる時期がくるかもしれませんが、それはこの記事では横に置いておきます)。

さて、ここまでは翻訳を始めて間もない方が納期の理由からチェッカー泣かせの訳文を納品する可能性について書きました(当然、それ以外の可能性もあるでしょう。「そもそもトライアルの内容が実務に沿っていない」とか)。でも、チェッカー泣かせの訳文を納品する翻訳者さんが必ずしも駆け出しだとは限りません。

「じゃあ、駆け出しでもない翻訳者さんの訳文の品質が低い(つまり、トライアルに合格できるようなレベルに達していないと思われる)のはなぜ?」

なぜでしょう。私も知りたいです。可能性の1つとして考えられるのは、スピードや作業量だけを追及した結果、能力が下がってしまった。あるいは、他の質の悪い翻訳を目にするなかで、自分もそのレベルでいいんだと錯覚してしまった。(※ここでは、たまたますごく難しい案件だったり、専門外の案件だったという可能性は省きます。仮にそうだとしても、一定以上の実力を持つ翻訳者ならそこまでボロボロのものは出さないと思いますが。)

もちろん生活を維持するために仕事のスピードや作業量は重要ですが、品質を犠牲にしてどうするんでしょうか。当然、報酬や納期、難易度に応じて求められる翻訳の質というのはあると思うので、過剰に高い品質を追求する必要はないだろうとは思います。ここでは、「案件ごとに求められる品質」を満たしているかどうかのお話をします。

上記のとおり、スピードや作業量を重視して一次訳のレベルで出してしまったとしたら、それはもうプロとは言えませんね。求められる品質を満たすために、一次訳を経て、推敲でどこまで完成度を上げられるかが翻訳者の真の力の見せ処ですよね。一次訳で原文をある程度「読み込んだ」翻訳者だからこそ、「推敲」という作業ができる。

ここでようやく本題。チェッカーのお仕事についてです。

他の人が翻訳したもの」をチェックしなければならないチェッカーさんが、「一度原文に目を通しただけ」で「推敲」できるわけがないんです。それ(推敲)を、通常は「翻訳者より報酬が少なく、リードタイムの短い」チェッカーさんに期待するのが間違っています。チェッカーさんがせいぜいできるのは、原文と突き合わせて、誤字、脱字、数字の誤り、(必要最低限の)不自然な日本語の修正、(必要に応じて)専門用語のチェック、そして、訳抜けがないかのチェックまででしょう。

つまり、未来堂さんのおっしゃるとおり、本来「リライト」(推敲)はチェッカーの作業範囲ではない、ということです。いくら優れたチェッカーを用意しても、翻訳者の訳文の底上げを図らない限り、いつまでたっても良くならない。

「単純明快じゃないか、じゃあチェッカーは悩む必要ないね?」

いいえ。なぜって、チェッカーは別の翻訳者が兼任することが多いからです。自分の仕事に高い信念を持っている翻訳者ほど、チェッカーをする場合に品質の低い翻訳を見るとものすごい葛藤が生まれます。自分の手を経てクライアントに出ていく以上、しっかりとした完成品を納品したいんです。それができない。そうしようとすると、本来のチェッカーの責任範囲を超えて作業しなければならなくなる。最悪、自分が一から翻訳するよりも、ストレスも時間もかかってしまう。

「じゃあ、何が望みなの?」

少なくとも、私の望みは、

①翻訳会社は、それを理解して翻訳者を選定すること(トライアルの内容をより実務に沿ったものにする、など)。
②翻訳会社は、チェッカーに過度な期待を寄せないこと。
③翻訳会社は、チェッカーに作業内容(責任範囲)を明確に指示すること(ケアレスミスのチェック)
④チェッカーの本来の責任範囲を超える作業については、翻訳会社がチェッカーに別途依頼し、その分の報酬を払うこと。
⑤そうでなければ、翻訳会社は、ケアレスミス以外のクライアントからのクレームをチェッカーのせいにしないこと。
⑥翻訳会社は、過去にクライアントから(ケアレスミス以外で)クレームを受けた翻訳者を使うことに慎重になること。
⑦翻訳者は、プロ意識を持ち、求められる品質を犠牲にしてまでスピードや作業量を追及しないこと(もしそんな事実があれば)。
⑧翻訳者は、自分の訳文を客観的に評価できるような目を養う努力をすること。

です。そうすれば、翻訳者本人も、「チェッカーに改悪された」なんて怒る必要がなくなります。もちろん、クライアントからの(ケアレスミス以外の)クレームは、プロの翻訳者なら受ける覚悟はあるでしょう。チェッカーがいる前提で(そういう気持ちで)作業するのは「プロ」とは言えないですもんね。

チェッカーも自分の責任範囲が明確になり、ある程度割り切って作業できるので、ストレス(葛藤)が軽くなるんじゃないでしょうか。

ということで長々と書いてしまいましたが、結局言いたかったことは最後の部分です。

翻訳者はその求められる品質をしっかりと満たす。一方、チェッカーは本来の責任範囲だけを作業すればいい

そうすれば、少なくとも今よりはハッピーな人が増えるはず。その鍵を握るのは「間に立つ翻訳会社の能力」ということでしょう。

なにより、翻訳者、チェッカー、翻訳会社(、そしてできればクライアント)が一体となってよいものをつくっていければいいですね!

IMG_6732


なかなか記事を書くまとまった時間が取れず、最近はtwitterの方がメインみたいになっていますが、ブログもぼちぼち書いていきたいと思っています(書きたいことはいっぱいある)。

前回、前々回と翻訳や英語から外れた内容だったので、そろそろ翻訳に関する記事でも、と考えたのですが、この内容は今のうちに書いておきたかったのでそうします。よかったらおつきあいください。

ブログを書き始めたのが6月末、twitterを始めたのが7月末。

当初の動機は「在宅翻訳も10年目突入を目前に控え、年齢も節目を迎えたので何か新しいことがやりたいな。どうせなら、IT/ビジネス分野の在宅翻訳を始めたいと思っている人、始めて間もない人に、自分なりに何かできることはないかな」というものでした。

それに、今まで「ことば」を扱うお仕事をしながらも、人様の文章を横から縦に置き換えることに必死で、自分の考えをことばにして(アウトプットして)こなかった、という反省もありました。

結果的に、誰かの役に立っているかどうかはわかりませんが、自分が得たものは大きかったと思います。本当に良かったなという点がいくつもあって、

【ブログの場合・翻訳】

①自分自身のことばで語ることで、自分の頭の中にあるぼんやりとしていたものがはっきりと見えてきた
②自分の頭の中にあるものを文章にすることの難しさを改めて知った
③文章にすることの難しさを知ることで、翻訳時の原文を見る目が変わった
④原文を見る目が変わることで、訳文に取り組む姿勢も変わった
⑤訳文に取り組む姿勢が変わったことで、やりがいがアップした
⑥やりがいがアップすることで、翻訳がまた少し楽しくなった
⑦翻訳がまた少し楽しくなることで、心に余裕が生まれた
⑧心に余裕が生まれたことで、訳文にもっと「あそび」を入れられるようになった
⑨訳文にもっと「あそび」を入れられるようになることで、ことばがもっと好きになった
⑩だから、うれしい!

【ブログの場合・その他】

①ブログを書くにあたって参考にしようと、他の翻訳者さんのブログを覗きに行くようなった
②そこで、ものすごく刺激をもらう
③刺激をもらうだけでなく、少しずつ交流が生まれている
④だから、うれしい!

【twitterの場合・翻訳】

①翻訳中に頭に浮かんでもすぐに消えていく考えを書き留めることができる
②限られた文字数で、簡潔に、伝わる文章を書く難しさを知った
③他の翻訳者さんたちがどんなことを考えているかがわかる
④今まで知らなかった翻訳の情報が入ってくる
⑤ブログとは違い、目に見える形で気軽に他の翻訳者さんとの交流を広げることができる
⑥だから、うれしい!

【twitterの場合・その他】

①しょうもないことをつぶやくことで、気晴らしになる
②ときどき共感してもらえる
③過去の埋もれていた記憶がよみがえる
④翻訳以外でも新しいアイデアに触れることができ、いろいろと考える機会が生まれる
⑤同じことに対しても人によって視点が違っておもしろいし、勉強になる
⑥今のトレンドがわかる
⑦趣味をシェアできる
⑧だから、うれしい!

ほかにもたくさんあったように思いますが、今ざっと思いつくだけでもこれだけ良かったことがあります。そして今後も続けていくことで、この項目はもっと増えていくんだろうな、と楽しみです。

何より大きかったのが、他分野も含め多くの翻訳者さんと交流でき、刺激をもらえること。ブログにお邪魔してやりとりさせていただいたり、twitter上でもディスカッションできたり、この場をお借りして皆さまに心からお礼を申し上げたいです。ありがとうございます。

そして、これからも新たな交流が生まれていく可能性を考えると、わくわくが止まりません。

次回の記事では、上記の良かった点について、翻訳に関する部分をもう少し踏み込んで書いていきたいと思います。

IMG_6969


空気を震わせる蝉の声もいつしか鳴りを潜め、今では数えるほどとなった。代わりに、虫たちが夜の帳の向こうから涼やかな音色を響かせている。むせ返るほどの熱気もずいぶんと和らぎ、夏の濃い青から透明度を増した空には少しばかりの哀愁が漂う。

夏休みの初め、蝉時雨について書いた。実はあの話には落ちがある。

せせらぎとでも言うべき川沿いの桜並木を抜け、いつもどおりの散歩道を通って市役所の支所に併設された公園へと行き着いた。昨年、深刻な運動不足を解消しようと始めた散歩だったが、単に歩くだけでは味気ないということで、デジカメを持って出掛けるようになった。それが今では目的が逆転している。当然、その日も首からデジカメをぶら下げ、木を見上げてお目当ての蝉の姿を探していた。

公園では熱暑の中、何組かの親子が元気に遊んでいる。父親と小さな女の子2人が少し離れた所から何やらこちらの様子を伺っている。不思議に思いながらも、私は木の上に黄緑色の小さな美しい被写体を見つけ、カメラを構えていた。3人がこちらに近づく。

「お姉さん」

そう父親に声をかけられた。

「お姉さん」

もう一度呼びかけられ、そちらに顔を向けた。

「はい?」

「......お姉さん、もしかして....」

「?」

「もしかして、......蝉フェチですか?」

予想もしなかったその問いに、私はとっさにこう答えた。

「あ、今木の上にきれいな色の毛虫がいたので...。残念ながら、蝉フェチではないです」

後から考えるとこの回答もどうかしていると思うが、

「そうですか、蝉フェチじゃないんですね......。お姉さん、蝉フェチじゃないんだって」

とやや残念そうに娘たちに言う若い父親の手には、蝉ががっちりと握られていた。その後、娘たちが見守るなか、父親はその蝉を高く投げ上げ、夏の空へと解放した......

□■□■□■□■□

それから3人と別れ、散歩を再開したんですが、あのとき「蝉フェチです」と答えていたらどうなっていたんだろうと思うと、妄想が止まりません。なにより、「蝉フェチ」ということばがおかしすぎて、「蝉フェチって、なんやねん」とひとりエア突っ込みをしていたのは言うまでもありません。

そんなわけで、このお話もずっと書きたかったのですが、日常に忙殺されて書けずにいました。そうしている間に夏も終わってしまいそうな今、せっかくなので書いてみました。

散歩中ずっとニヤニヤが止まらず、傍から見たらさぞ気味が悪かっただろうと思います。あの後、自分の「フェチ」に対する理解がおかしいのかと不安がよぎり、辞書も調べてみました。

ご安心ください、蝉フェチではありません。

お散歩していると、こうしてときどき声を掛けられます。なんだろう、無防備なのかな?でも、こういうのもお散歩の醍醐味ですよね(ちがうか)。

この機会に、撮りためた蝉の写真を少しご紹介させてください。

IMG_1811

IMG_1821

IMG_1852

IMG_3850

IMG_6437

IMG_6973

IMG_6901


夏休みが終わりました~。来週からは学校給食も始まり、やれやれです。夏休み最終日には、息子氏から「ママ、明日から楽になるね」なんて言われ、小6の子に見透かされる母ってどうよ、と思いながら「うひひ♡」と答えておきました。「いつまでも一番の理解者でありたい」、なんて夏休み初めの記事(『【雑感】 いよいよ夏休み』)には書いていましたが、実際には息子の方が私のことをよく理解してくれていると思います。

さて、2学期は、運動会だの、修学旅行だの、音楽会だのとイベントが盛りだくさんなので、これまたあっという間に冬休みが来そうな悪寒。(^_^;)

6年生もあと少しかと思うと、もうすでに名残惜しさのような何とも言えない寂しさを感じます。秋の気配のせいでしょうか。

以前、身近な女性がこんなことを話していました。「子どもたちが大きくなり、家を出て行ったとき、自分の人生は終わったと感じた」、と。それを聞いて、この人は「母」として自分の人生を捧げてきた人なのだなぁと、私自身にはない強さを感じました。私の母もそうです。本人なりに葛藤もあったかもしれませんが、そんなことはおくびにも出さず、夫のため、家族のために良き妻・良き母として笑顔で尽くしてきてくれました。自分が母になった今、あらためて感謝せずにはいられません。

twitterなどで、職場や社会、家庭での「男女差別」の問題について声高に叫ぶ女性を見かけます。ご本人たちがそう感じて、自分の周りから良くしていきたいという信念の下で活動しておられるのはご本人たちの自由です。外で活躍したい人が、「女性」というだけで虐げられたり、活動の場を限られたりというのは、私もおかしいと思うし、男女関係なく「人間」として個々人の才能を発揮し、気持ち良い職場、そして社会になればいいなとも思います。でもね、「縁の下の力持ち」によろこびを感じている女性たちも確かにいる(もちろん、それが男性でもいいわけですが)。だからどうか、「男女差別」というひと言で、そうした女性たちに「不幸」のレッテルを貼らないでください、とだけ言いたい。少なくとも、そうして生きてきた私の母は不幸ではないと思う。女性による行き過ぎたフェミニズムは、溢れる家族への愛ととともに幸せに生きている女性にさえ、ときに「不幸」のレッテルを貼ってしまう。本当に問題を解決したいのなら、「男女差別」じゃなくて、性差も含めそれぞれが活躍できる「人間平等」でいいじゃないの、と私は思います。「ジェンダー」の問題にしてもそうです。

とはいえ、私自身は生来の独立心の強さから、常に変化を楽しむ自分でありたい。子どもが家を出ていくとき、「寂しい」と泣くよりも、「人生楽しんで来い、私も自分の人生を楽しむから」と言って送り出せる親でありたい。私自身が常に前を見て進み続けるひとりの人間として、息子に対しても「わが子」という以前に、この世に生まれ出た「ひとりの人間」として扱い、関わって行きたいと思っています。

夏休みが終わり初めて迎えた日曜の早朝、遠くからかすかに届く虫の音を聞きながら、こんなことをとりとめもなく考えたのでした。

このページのトップヘ