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今日、また1つ人生の節目を迎えた。
せっかくの機会だから、ここで一度ざっくりと今の想いをまとめてみたい。

それにしても傍から見ると一貫性のない人生を歩いてきたんだろうな、と思う。
取り立てて自慢できる学歴や職歴、特技があるわけでもないし、「後悔はない」と言えるほどしっかりと生きてきたわけでもないが、「自分の人生を自分で決めてきた」ということは言える。だからこそ、結果がどう転んでも人のせいにはしたくない。そして、同じように人の人生にも敬意を払いたい。それだけはこれから先どんな状況にあっても、私が私でいる限り変わらないだろうし、変えたくない。

改めて人生を振り返ってみると、寄り道の多い、それでも1本につながる太い線が自分には見える。これまでやってきたことのどれか1つが欠けても今の自分はないだろう。こうして翻訳の仕事をしているのもその結果だ。これがまた今後の人生に何らかの形でつながっていくにちがいない。

物心がついたころから「自分は何のために生まれてきたんだろう」となんとなく考えながら生きてきた。感受性の強い子だったんだろう。ずっと他の人とはオブラート1枚隔てたところにいるような感覚がつきまとってきた。この感覚は、「自分は特別だ」とかそういうのではなく、なぜかもわからないが、ときにそれは寂しい。このオブラートをはがしてしまえれば楽なのにとも思うが、一生ついてまわるものかもしれないし、まだ「そのとき」が来ていないだけかもしれない。

そして、「何のために生まれて...」という自分に対するその問いは、歳を重ねるほど強くなる一方だった。子どもを産み、「母」として生きる自分と、それまでの自由に人生を選択してきた「個」としての自分との葛藤もあった。自分が自分でなくなるような焦り。誰しも大なり小なりそんな想いは持っているのかもしれないが、そういったことを口にする人は私の周りには少ない。幸い、主人は違う。毎年、お正月になれば「今年の目標は何?」と当たり前のように聞いてくる人だ。「何かしたいことがあったら、いつでも応援するよ!」と。出会ったころ、「僕はパートナーだけど、ずっと一番の親友でもあるから」と言ってくれた。その関係は一児の親となった今も変わっていないと思う。とても感謝している。家の中では折に触れ人生の話をしている。息子ともだ。今はよくわかっていないかもしれないが、どんな人生を歩もうと、自分で考え、自分の責任は自分でとれる人間になってほしい。

私はこれまで、「何のために」と自問し続けているのは、はっきりとした「人生の目標」を持っていないからだと思い込んでいたし、それを見つけようともがいてきた。でも、ここ数年は「そうじゃないんだ」と思うようになった。もちろん、目標を持って生きられればそれに越したことはないだろう。でも、1本の線となった過去を顧みたとき、その時々で「一所懸命」だった自分の姿があった。その都度成し遂げたことは、他の誰でもない「自分」だったからこそできたものだと思う。「ああ、それでいいんだ」と実感を持って思えた。もちろん人間だからずっと走り続けることはできないが、そのときの精一杯でやっていけば、また節目が来て振り返ったときに少し伸びた1本の線となって見えるのだろう。そして、ある日自分が最期を迎えたとき、初めて「ああ、自分の人生の意味はこういうことだったんだ」と思える、それでいいんじゃないかと。

今はそんな人生観でもって生きている。忙しい日常の中では流されがちになっても、ときどきこうして確認するようにしていきたい。

仕事に対しても同じスタンスだ。「ワーク・ライフ・バランス」とうことばがあるのは承知しているし、大切だとも思うが、私の人生において仕事は大きなウェイトを占めている。とても切り離せるものではない。自分の中で「仕事」と「何のために」はきっとどこかでつながっているんだろう。どのような仕事をするにしても「この人になら任せられる」という働きをしたい。それは翻訳でも同じだ。

翻訳については、まだまだ自分の満足できるレベルに達していない。「書いた人の伝えたい想いをそのまま訳文に乗せ、読んだ人が元々日本語で書かれた文のように違和感なく受け取り、すがすがしい気分で読み終える」、そんな文章を書くことが現在の仕事上の目標だ。

まだまだ道半ば。これから何があるかわからないし、人生の選択を迫られることも増えるだろう。
でも大丈夫。今はそう思える。